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太宰府の飛梅

「飛梅」は太宰府天満宮の神木で、藤原道真公が太宰府に左遷された際に、道真公を慕って京から飛んできたいう言い伝えがあります。

​本来は門外不出とされてきましたが、古文書などから五家荘の縦木神社・仁田尾神社の由来が道真公を祀ったものだとわかり、「飛梅」の分根が実現しました。

​昭和56年の分根から本日まで、五家荘には道真公ゆかりの「飛梅」が、伝統とともに守られています。

また、このことを記念して太宰府天満宮の一角に“五家荘園”が造営されました。太宰府遊園地入口左手に記念碑とシャクナゲ等があります。

左座家

左座家には次のような言い伝えが残されています。

「道真には2人の子どもがおり、兄を菅宰相といい、弟を菅千代丸といいました。道真の死後、この二人の兄弟は立派に成長していきましたが、藤原一族にしてみれば、この兄弟の仕返しが恐ろしくなり、二人を討ち取ることが藤原家の安泰につながると考え、追討の軍勢を差し向けました。このことをいち早く聞きつけた兄の宰相は左座太郎(ぞうざたろう)と、弟の千代丸は菅次郎(すがじろう)と改名し、小数の家臣を連れ、延長元(923)年、肥後国高瀬を経て甲佐に入り、左座太郎は現在の柿迫から笹越峠を過ぎ、仁田尾の「奥」という所に住み着きました。これが仁田尾の左座氏の祖先です。また、弟の菅次郎は兄と甲佐で別れ、矢部郷に住んでいましたが、兄が呼びよせ、姓も左座と改名し樅木に住むようになりました。」

 その兄左座太郎の子孫である左座家は今も仁田尾にあります。住居の場所は200年前に変わったそうで、現在家のある場所は当時の場所とは異なるそうです。

かやぶき屋根の立派な民家で、屋敷の2階には隠し部屋もあり、かつては刀や古文書を隠していたり、秘密の会議をおこなったりしたそうです。

昔の鎧や着物が展示してあり、旧暦8月15日の十五夜さん(観月会)、お香、茶会など当時の雰囲気を伝える行事がおこなわれています。

(熊本市サイトより抜粋)

緒方家

壇ノ浦の戦いで敗れた平清経は、五家荘の白鳥山にある“御池”という場所に落ち延びた。

その際に豊後国竹田で娶った妻の姓である緒方を名乗った。

 

この家は、清経のひ孫の代になって椎原の支配者として住み着きいた緒方家が、代々暮らした屋敷です。現在の屋敷が建てられてから300年ほど経つそうです。

五家荘 海軍極秘計画

太平洋戦争敗戦直後、皇族存続のために五家荘へ皇族をかくまおうとする海軍の「皇統護持(こうとうごじ)作戦」という極秘計画がありました。

計画は実施されませんでしたが、東山本店の店主「東山孝敏」は海軍の隊員が調査のために村内に宿泊した際の帳簿を使い、観光客へその秘話を語り継いでおります。

防衛省の防衛研究所が保管する富岡定俊海軍少将の発言録によると、作戦は敗戦直後、富岡少将が発案し当時の米内光政海軍大臣が承諾。

「皇族の血統を保持する手を打っておかなければならない。最悪の場合、皇子または皇女を擁(よう)して、五家荘に落ち延びる計画であった」

と記されている。

作戦には、長崎県の大村基地の海軍343航空隊(源田実司令=後に航空自衛隊幕僚長、参院議員)から20人が参加。当時、現地調査に訪れた本隊員の加藤種男さんによると、終戦直後の8月下旬に8人が熊本入りし、現在の美里町を拠点に候補地を調べた。

加藤さんは「五家荘は山深い場所だったが、最終的にかくまうには適さない」という結論になったと語っている。

調査中の8月26日、隊員らは目的を告げず日本杉峠にあった民宿に宿泊。

そこが現在の東山本店である。(現在は民宿はしていない。)

​その後、40数年前に民宿を経営していた東山の父親を元隊員という人物が訪ねてきて、保管されていた、この帳簿が見つかった。

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